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「弁当の思い出」(読売新聞北海道版コラム「しまふくろう」 2005(平成17)年4月1日)
真の力を磨く (札幌彫刻美術館友の会会報「いずみ」第10号2005(平成17)年1月1日)
「弁当の思い出」
(読売新聞北海道版コラム「しまふくろう」 2005(平成17)年4月1日)
私の実家は、酒や食料品を売る小さな商売をしていました。朝の早い時間から家族総出で仕事をしており、学校に持っていく弁当を準備する時間がありません。いつも店に並べてある菓子パンと牛乳を持って学校に通っていました。
幼稚園のころ、友人たちはそのパンをうらやましがっていましたが、私は米の弁当が食べたいと思っていました。朝の都合がつき、年に何度かご飯を持参したときはうれしかったものです。
アルミの弁当箱に薄く白いご飯を詰め、その上に海苔をのせて醤油をひと回しします。さらにその上にご飯を敷き詰めます。海苔がサンドイッチになったこの弁当は特にワクワクしたものです。アルミのふたを取ると醤油の香ばしさが漂い、たとえご飯が冷たくても食欲をそそったものです。
高校生時代もパンが多かったのですが、カップ麺を持参することもありました。食べ盛りですから、それだけでは足りるはずもなく、放課後には、学食にも通っていました。今思うと、本当によく食べたものです。
毎日のそんな昼食をかわいそうに思ってくれたクラスメート、しかも女の子が弁当を作って来てくれたことがありました。それはたった一度だけのことでしたが、なんとなく胸のあたりが痛くなる思い出です。
弁当には数多くの思い出が詰まっています。
真の力を磨く
(札幌彫刻美術館友の会会報「いずみ」第10号2005(平成17)年1月1日)
「さあみなさん、よく見ましょう。良く聞きましょう。良く考えましょう。」
アメリア・アレナスさんと会ってから、一年が過ぎた。そのとき、彼女から私が受けた強いインパクトは、今も決して色褪せてはいない。それどころか、時間の経過とともに彼女の印象がますます強まってくる。
昨年秋、ニセコ小学校で美術の特別授業が行なわた。
講師は、ニューヨーク近代美術館で美術教育プログラムの専門家として活躍したアメリア・アレナスさん。日本の各地で、鑑賞教育について講演を行なうための来日し、ニセコには温泉で休息をするため立ち寄った。
「せっかくニセコに行くのだから、何かできることは?」
たまたま、アメリアさんの来日に私の知人が同行していたこともあって、大変好意的な申し出を受けた。教育委員会に頼み込んで特別授業の実施を決めた。対象は、ニセコ小4年生と先生たちだ。
世界的に評価の高いアメリアさんの授業が、日本で初めて実現する。
美術作品のスライドを使う授業だという。しかし、内容が良く分からない。しかも、コミュニケーションがままならない外国人が講師だ。難解でつまらない授業だったら、無理をして授業日程をやり繰りした小学校の先生たちにも顔向けができない。授業への不安が募る。
子供たちを無造作に教室の床に座らせ、アメリア先生が、ゆっくりと話し出す。
授業が始まった。
「さあ、スライドを良く見てね。何が描いてありますか。良く見てよ。まだ喋らなくていいよ。何が描いてあるか、良く見てね。」
通訳を介して、アメリア先生の言葉が子供たちに伝えられる。スクリーンには、二人の人が描かれた絵が映っている。美術鑑賞の授業だが、作者も題名も絵に関する情報は何も知らせてはくれない。ちょっと不親切だとも感ずる。
アメリア先生は子供たちに再度「何が描かれている」、そして「題名をつけてね」と問いかける。
暗幕を引いた薄暗い教室の後ろで見ている私には、先生を取り囲むように床に座っている子供たちが、一瞬にしてアメリア先生の世界に引き込まれているのが分かる。しかし、まだ子供たちが喋る場面ではない。
スライドを凝視し始めて、しばしの時間が経過した。
「さあ何が描いてあったか、話してみよう。」
絵を見ている時間が、ちょっと長かったためか、子供たちは喋りたくて仕方がなさそうだ。堰を切ったように話そうとする子供もいるが、アメリア先生が続ける。
「お友達の話を良く聞いてね。誰かが喋っているときは、その話を良く聞くのよ。」
やっと子供たちが話す場面になった。
「殺し合っているのかな」、「仲の良い姉妹だと思う」、「血管が繋がっているよ」、「血を分け合ったのかな」などと色々な意見が出される。
繰り返し喋りたそうな子供もいるが、先生は全体のバランスを見ながら、おとなしそうな子供にも目配りをして、次々と子供たちから言葉を引き出してゆく。普段、口数の少ない子供までが、意見を述べたという。それは魔法か催眠術のようにも見える。
「なぜこんなに違った意見が出るのだろうか。みんなよく考えてね。」
今度は、絵を離れ他人の意見に関心を惹きつける。そして子供同士の意見交換が始まる。
5枚のスライドを見終わってみると、あっという間の90分だった。
・ スライドを見る
・ 子どもたちがスライドについて意見を話す
・ 仲間の意見をしっかり聞く
・ さらに意見を続ける
整理をしてみれば、たったこれだけのことだ。しかし、その内容は、この作業手順の箇条書きでは、まったく伝えられないものだ。子供の目が輝いている。自分の言葉で喋っている。そして子供たちが他者を意識している。
これは私が知っている美術鑑賞、たとえば作者の経歴とか、色使いとか、構図、美術史上の位置づけなどを知らされる、そんなものではない。
いかにモノを見るのか、何を考え、どう意見を述べ、人の話を受け入れ、人との違いを知り、さらに考えるなど、観察し、考え、想像するための基礎が包含されている。
授業終了後、アメリアさんと話をした。
「美術館の絵の脇にある解説が邪魔なの。あれを読む必要はないわ。絵そのものから感ずることが大事よ。」
ガツンと一撃、頭を殴られた気分だ。
そうなのだ。これが基礎だ。何かを感じ、モノを考える基礎はこれだ。予め用意されたマニュアルから知識を得て、記憶したことを披瀝することではない。既成概念から抜け出して真にモノを考えるとは、このことだ。これによって初めて独創性や個性が磨かれる。
もし子供のころに私がこうした授業を受けていたらどうだっただろうか。もっと感性が磨かれたかもしれない。もっと人の話を聞き、多くの人の意見の違いを容認でき、それでいて独創性が高まったかもしれない。
思いかえしてみると、子供の頃の図画工作の授業は、作業をすることが中心だった。絵を描く、粘土でなにかを作る、版画、工作など、創作中心の授業だった。絵画鑑賞の事業もあったはずだが、作者と絵の特色などを覚えるもので退屈だった。図画工作や美術の授業とは動的な作業を伴うものであり、静的なものではないとの先入観が出来上がっていた。
ましてや美術鑑賞から、思考力やコミュニケーション能力、人の多様性などが学べるとは思ってもみなかったが、アメリアさんの授業を通してみると、それは大きな間違いであることが分かる。
アメリアさんの手法は、一見単純に見える。しかし、それは極めて論理的な考えの上に成り立っているようだ。
授業終了後、彼女は、人間の成長にともなう思考パターンの変化やサルからヒトへの生物学的進化にともなう思考発達の変遷などを、立て板に水が流れるように話し出した。
彼女は、美術作品や美術史に関する知識に加え、人間の思考について、あふれ出るほどの膨大な知識を持っているのだ。9歳から13歳までの子どもの思考の変遷や猿人から人への変化について、深い理論背景を持っている。だからこそ、美術鑑賞授業が、多面的なもののとらえ方や議論の仕方などを学ぶ場になり、絵とは何かまでをも問う場になりうるのだ。
こうしたアメリアさんの授業がある一方で、あらゆる面であまりにも安直に成果を求めがちな私たちがいる。教育の場においても、「ゆとり重視」か「学力重視」かの狭間で、極めて安直に行ったり来たりしながら子供たちと教育の現場に混乱をもたらしている。
真の力を養うとは、もっと別の深淵な知恵の奥に潜んでいるものなのだ。アメリアさんとの出会いの中で、このことを強烈に叩き込まれた。私は、この刺激を一生大切にしたいと思う。
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